地球を座布団にして

 <雨、一時曇り>

朝から雨。午後、短いあいだ止んだが、夕方からまた強い雨



たく発起人のお誘いで、報国寺坐禅に参加してきた。初心者向けのもの。朝5時すぎに起き、7時前の電車で鎌倉へ。そこからバスで報国寺。ルンルンさん、のろちゃん、ミキティ、みーちゃん、みどりさん、久左衛門さん、cobu、わたし。
まずは筆で名前を書いたら奥の部屋で袴を借りて身に着ける。大学の卒業式などで袴をはいたことがないので、生まれてはじめての袴。今日は参加者が多かったらしく、袴が足らなかったようだ。全員がそろうまで廊下に座って待機し、それから本堂へ移動。坐禅は10分、15分、20分で、そのあいだに作法などのお話がある。おじぎの仕方、歩くときの手の位置、お茶とお菓子のいただきかた、など。途中、「坐禅の気持ちを持ったまま」で一列になって庭を歩いたが、それも坐禅の一環だという。最後に少し足を崩して、お話を聞く。
調身、調息、調心。人の心は波ではなく海。波立つのは心ではなく感情で、それを包み込む海のような心。心は雲ではなく空。悪いことばかり考えていると、雲がもくもくと大きくなって雷鳴が響く。泥水が入ったコップは動かしているといつまでも水は泥水のままだが、それをそっと静かに置いておくと、泥が沈殿して上澄みができる。坐禅とはそういうようなものである、と。
坐禅をしながら息を数える。ひとつ、と数えながらゆっくりと息を吐き出し、軽く吸う。ふたつと数えながら吐き出し、吸う。数を数えているつもりが別のことを考えていると数えるのがおろそかになる。そうするとまたひとつからはじめる。いつまで経ってもみっつかよっつ。仕事の段取りのことなどをつい考えてしまう。さらに白状すれば、一瞬、眠りそうになった。でも寝てはないです。
坐禅は目を閉じてはいけないことをはじめて知った。そして坐禅とは心をリラックスさせるためのものではなく(ちょっとそういうものかと思っていた……)、心のあり方を厳しくやさしく見つめることである。坐禅によって劇的なことが起こるわけではなく、それは自分の心を見つめるきっかけなのだ。



それにしても。仕事でいろんな人からお話をうかがうが、いつもメモを取りながらだ。またはボイスレコーダーで録音する。今日は手元にメモ帳もなにもないわけだから、忘れないように一所懸命聞こうと思った。だけど、メモを取らずに話を聞くことは難しいとしみじみ感じたのであった。いかに自分の脳が働いていないか、だ。

 



お寺を出て、近くのさはんという日本茶のカフェへ。煎茶を飲みながらしばし歓談。バスで鎌倉駅に戻り、キッキリキによってラスクを買う。逗子に戻り、わたしは午後は仕事。逗子海岸へ。雨だと予定が大幅に狂うんだよな。とりあえずできることのみ、する。それでも、西の空が明るくなった時間帯があったので助かる。


昼食は仕事先でフェジョンや揚げパンやコロッケやソーセージやココナッツドリンクなど、食べる食べる。明らかにカロリーオーバーだ。こうなったらたまには食べる日にしようと、夕食後、キッキリキのラスクをばりばりもぐもぐ。明日からまたダイエットがんばろう。