しばらくぶりの更新です

地震以来、胸のどきどきがおさまらないような日が続きます。普通の日常生活、経済生活をしなくてはと思っています。なかなか思うようにはいきませんが。
11日、仕事で葉山にいました。

そこでの仕事は終わって、モビールがきらきら光ってきれいだなと思っていたら、突然の揺れ。お店の人と外に出ていると、近所の人が「電柱のそばから離れたほうがいいですよ」と声をかけられる。次の約束のところに電話をしたらつながらない。電話がつながるのを待つより、直接行ったほうが早いと、Fさんの車で向かう。物が壊れたり土壁の一部が落ちたりしたとのことで、別の日におじゃまする約束をして帰る。ラジオのニュースで、東北が震源地震だわかったけれど、まだそのころには暢気なものだった。
帰り道、田越川のそばを通ると、水が逆流している。見ているあいだにも、水かさが増えていた。ラジオのニュースだけではまだ実情もわかなかった。
家に戻ると停電。2階の本棚の雑誌が雪崩落ちていたけれど、ほかは壊れたものもなく、壁に立てかけていたウクレレバンジョー、絵などは倒れてもいなかった。幸い、ガスも水道も使える。お湯をわかしてペットボトルに入れ、湯たんぽのようなものをつくって暖をとる。ラジオは2台つけて、NHK湘南ビーチFMを聞く。暗くなってからは、懐中電灯とキャンドル2本。
こぶ吉は会社の人の車に乗せてもらって21時ごろ帰宅。こぶ吉がキャンプ用のランタンやヘッドライトなどを出してくれたので、一気に部屋は明るくなる。このころもまだ暢気なもので、薄暗いなかでふたりで焼酎のお湯割りを飲んだりしていた。そのうち、カーナビでワンセグ放送が見れることに気づき、NHKだったかTBSだったかで初めて津波の映像を見て驚く。これはたいへんなことになっている。
こぶ吉の実家は宮城で、地震直後にわたしの母が電話をしたら通じていて、皿などは壊れたけれど家は無事。みんな怪我もなく大丈夫、とのことでした。こぶ吉が夕方にかけたときもつながり、大丈夫とのこと。けれど、それ以降、電話は一切通じなくなった。無事とのことなので、それを信じて連絡があるのを待つしかない。
12日は、風邪のせいもあってほとんど覚えていない。13日は、ひきこもっていてもと、チケットを買っていた文化プラザの落語名人会へ。柳家さん市「初天神」、柳家さん喬「百川」、中入り後は色物の柳家紫文の俗曲、最後は三遊亭小遊三の「味噌蔵」。派手ではないけどおもしろい。といっても、前の日にあまり寝られなかったせいもあって、ときどきうとうと。
14日、停電があるといっていたが回避。こぶ吉は自宅待機。わたしは幸い、仕事はキャンセルにならなかったので、こぶ吉の車で鎌倉まで送ってもらって、仕事を1件。

15日、朝6時50分から9時50分まで停電。することもなく、本を読んだりするが落ち着かない。
 
16日、18時50分から20時50分まで停電。夜の停電は朝の停電よりも、余計にすることがない。ランタンの明かりでは本も読めない。電波状態の悪いワンセグ放送を見たり、ラジオを聞いたり。
17日、停電中止。節電しようと思うと、自然とガスや水道まで節約していることに気づく。
18日、仕事2件の予定が1件はキャンセルで延期となり、1件のみ。停電は中止。夜、21時13分、こぶ母より電話! やった! やっと声が聞けた。無事だと信じていたが、やはり不安だった。みんな元気で自宅で過ごしているとのこと。断水もあったらしい。都市ガスは止まっていたが、幸いプロパンガスなので、煮炊きもできていたとのこと。暖は灯油の小さなストーブで。
19日、20日、21日、風邪で体調がすぐれないので、家から一歩も出ず。咳ばかりして横腹が痛む。
20日のお昼頃、岩手に住むこぶ吉の親友から無事の知らせ。被害の多い町だったので、心配だった。地震直後には、どうしてるだろうねと言っていたけれど、テレビで被害の映像を見るにつけ、なんとなく口にできなくなっていた。やっとメールの返信がきた。家も、お母様もご無事とのこと。ただ、経営していたお店は全焼。でもユーモアのあるメールに、ほっとした。よかった。20日は満月が美しい夜でもあった。

22日、仕事1件。
23日、仕事1件。地震後、はじめて電車に乗った。といってもひと駅だけど。

由比ガ浜の海岸ではではワカメを拾いと思われる人が何人も出ていた。

そんな感じで過ごしたが、明日の金曜日でもう2週間。あっという間だったような、とてつもなく長い時間だったような。被災地の復興までには、果てしない時間と力が必要だ。自分なりに、なにができるかを考えていこうと思う。亡くなった方のご冥福を祈るとともに、一日でも早く、被災した方々が安心で安全なところで暮らせますように。